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私の自然散骨

私(当サイトの管理人)の自然散骨への意識について

かつて、秋川雅史が歌う「千の風になって」がブームになった。

冒頭から、「私のお墓の前で 泣かないでください」と歌い、「そこに私はいません」と歌われると、確かに、お墓にあるのは火葬後の遺骨であって、その人の魂は、そこにあるのではなく、大空に宇宙に溶け込んだ意識を持ってしまう。

かつて日本で行われていた埋葬方法は土葬で、亡骸は地中で木製の棺の中で眠っているはずだった。

私の少年時代の出来事

私の故郷では、決められた集合的な墓地はなく、それぞれの家が所有する山やふもとの野原に各々の家の墓地を持っていた。私の家が先祖代々使用していた墓地も、山のふもとにあって、そこへ行くのに少々不便だったし、台風の影響で石垣が崩れてしまったので、父の判断で、もっと便利な民家に近い畑のほうに墓地を移すことになった。

父の親友や親せきも手伝って、家族総出で、墓地を掘り起こした。

少年の私にとって、墓地を掘り起こすことには恐怖心があった。

しかし、掘ってみると、祖父や祖母のお墓、さらに先祖のお墓の地中には、遺体や遺骨の痕跡すらなかった。棺さえも、腐った木片すらもなかった。黒々とした肥沃な土が存在しているだけであった。

不思議に思った私は、父にその理由を尋ねると、地中の虫が食ったり、バクテリアが食ってしまったのだ、という。

そのとき、かつて家で飼っていた愛犬が死んで、祖父のお墓の隣に埋めたことを思い出して、そこを掘ってみた。やはり何もなかった。

その当時、もしも、「千の風になって」の歌が歌われていたとしたら、まさに「そこに私はいません」ということになる。結局、祖父も祖母も、先祖も、愛犬も自然に帰ったのだと思った。

しかし、いま私の父や母は、墓地を移した後の新しい墓石の下で、骨壺の中の遺骨として存在している。父や母は、これからもずっと骨壺の中で遺骨として存在することになる。祖父や祖母、先祖や、愛犬のように自然に帰るということはないのだ。

そこで思うのは、わたしはどうなるのか、どうしたいのかと考えると、祖父や祖母や、先祖や、愛犬のように、自然に帰りたいと願っている。窮屈な骨壺の中で遺骨として存在して何になるのだろう。その時は、父の遺骨も母の遺骨も粉状にして、一緒に撒いてほしいと思う。

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